清教徒革命の原因 - 人口増加(下)
雇用への影響も見逃せない。17世紀始めころには、かなりの数の失業者がいた。農業は最大の雇用の源でありつづけていたが、農場での労働は農繁期だけの仕事で、農閑期には数十万の賃労働者とその家族が職にあぶれた。労働力は安価で豊富にあり、ほとんどの工業の「動力」は人力であり、17世紀の工業はいまだ農村の掘建て小屋や屋外で近所の者どうしで営まれていた。こうした経済構造では工業が雇用の牽引力になれるはずもなかった。とはいえ、鉄などの金属加工や建設の業界に身を置く人たちにとっては、工業が主たる収入源だったろう。それ以外では、綿・絹織物業界のように、第一もしくは第二の収入源が工業たりえた人もいたに違いない。ではその繊維産業はどうか。当時の織物業界は、全イングランドで20万の雇用を抱える最大の産業だった。しかし繊維産業はすこぶる不安定で、高い食糧価格で景気はあがらず、17世紀初めごろの戦争と国際競争で海外市場を失ってきていた。家庭に目を転じると、何万もの家庭が、家族の死亡や傷病などで収入を確保できない状態に追い込まれた。当時は期限付きの求人が多すぎるいっぽうで労働者は安定した仕事を求めており、構造的な不完全就業の時代だった。
ハートフォードシャー州*1オルデンハムの例を見よう。かの地では、救貧法による救済が必要な家庭が1/10に達し、さらにその1/4は燃料・衣類などの施しを受けないと生きていけない状態にあった。多くの家では生存のために慈善団体の助けを乞うたり、時には燃料や農産物をくすねたりしなければならない状態に置かれていた。かれらは一時しのぎを繰り返して糊口をしのいでいた。地方の劣悪な雇用環境は、人びとを都市、特にロンドンに集中させる結果を招いた。とはいえロンドンにたどり着いても生活が安定するはずもなく、かれらは平和をおびやかす過激な層を形成した。都市には非熟練の労働者があふれたが、不景気や凶作がおこれば、労働者たちに仕事が行き渡らない。食糧価格が上がれば、食糧以外のものを買う余裕がなくなる。そうなれば工業生産物が売れず、市場は縮小する。必然的に雇用もなくなる。食べていくために賃金を必要としていた人びとこそが、雇用を減退させるのを促していたことになるわけで、なんとも皮肉なことだ。貧困問題をなんとかするために、政府は立法で移動や住宅建築、海外貿易などに規制をかけた。増え続ける人口によって政府の責任も増大し、おそらく王と政府の能力を越えてしまった。商品を作って売る人びと、地代の上昇で潤った人びと、法律家のように複雑で不安定な商品・土地市場で儲ける人びと、かれら勝ち組は自分の経済的成功を確固たるものにせんとした。社会・経済の変貌を国家体制にひびかないように腐心する人びともいた。両立せざる利害を調整する必要に迫られていた政府は、変化し続けるイングランド経済にも振り回されていたのだ。こうした時勢のなかで、王や政府が信頼を失うのは無理もない話であった。
*1

ハートフォードシャーはこのあたり。wikimedia commonsより。
ハートフォードシャー州*1オルデンハムの例を見よう。かの地では、救貧法による救済が必要な家庭が1/10に達し、さらにその1/4は燃料・衣類などの施しを受けないと生きていけない状態にあった。多くの家では生存のために慈善団体の助けを乞うたり、時には燃料や農産物をくすねたりしなければならない状態に置かれていた。かれらは一時しのぎを繰り返して糊口をしのいでいた。地方の劣悪な雇用環境は、人びとを都市、特にロンドンに集中させる結果を招いた。とはいえロンドンにたどり着いても生活が安定するはずもなく、かれらは平和をおびやかす過激な層を形成した。都市には非熟練の労働者があふれたが、不景気や凶作がおこれば、労働者たちに仕事が行き渡らない。食糧価格が上がれば、食糧以外のものを買う余裕がなくなる。そうなれば工業生産物が売れず、市場は縮小する。必然的に雇用もなくなる。食べていくために賃金を必要としていた人びとこそが、雇用を減退させるのを促していたことになるわけで、なんとも皮肉なことだ。貧困問題をなんとかするために、政府は立法で移動や住宅建築、海外貿易などに規制をかけた。増え続ける人口によって政府の責任も増大し、おそらく王と政府の能力を越えてしまった。商品を作って売る人びと、地代の上昇で潤った人びと、法律家のように複雑で不安定な商品・土地市場で儲ける人びと、かれら勝ち組は自分の経済的成功を確固たるものにせんとした。社会・経済の変貌を国家体制にひびかないように腐心する人びともいた。両立せざる利害を調整する必要に迫られていた政府は、変化し続けるイングランド経済にも振り回されていたのだ。こうした時勢のなかで、王や政府が信頼を失うのは無理もない話であった。
*1

ハートフォードシャーはこのあたり。wikimedia commonsより。
清教徒革命の原因 - 人口増加(上)
清教徒革命(ピューリタン革命、三王国戦争、以下略)の原因は色々ありすぎるけど、この本でモリル*1が注目しているのは人口の増加です。Stuart Britainから「なか見」で見れるところを一部訳出してみました。わからずに飛ばしてるところとか、なんかこんな感じでいいやーってやってるところとかいっぱいあります。
*1 清教徒革命を語る上で重要度Aな人。
女王エリザベス1世のもうひとつの顔
映画「エリザベス
」やドラマ「エリザベス1世 〜愛と陰謀の王宮〜」などで知られるエリザベス1世(1558-1603)は、先代のメアリ*1(1553-1558)がカトリックだったこともあって、歴史上プロテスタントのヒロインみたいに描かれる。

エリザベス1世。Wikimedia Commonsより。
今回は、エリザベスついて思いついたことを書いてみる。私の憶測が確かならば、宗教政策でも国家財政でも問題を先送りにして三王国戦争(清教徒革命)の原因を作り、さらにその責任をステュアート朝*2(1603〜)になすりつけたのだ。今回注目するのは、1577年に行った聖書解釈集会の解散命令である。
*1 「流血のメアリ」なんてカクテル名にもなった、どちらかというと悪玉役な人。
*2 エリザベス死後、イングランド王位を引き継いだスコットランドの王家。

エリザベス1世。Wikimedia Commonsより。
今回は、エリザベスついて思いついたことを書いてみる。私の憶測が確かならば、宗教政策でも国家財政でも問題を先送りにして三王国戦争(清教徒革命)の原因を作り、さらにその責任をステュアート朝*2(1603〜)になすりつけたのだ。今回注目するのは、1577年に行った聖書解釈集会の解散命令である。
*1 「流血のメアリ」なんてカクテル名にもなった、どちらかというと悪玉役な人。
*2 エリザベス死後、イングランド王位を引き継いだスコットランドの王家。
映画「クロムウェル」
映画「クロムウェル」を観た。
歴史学的にどうこう言うのは、このさい野暮というものだろう。
とりあえず革命ヲタクとしては、ヘンリー・アイアトンとかジョン・ピムとかストラフォード伯とか出てきた時点で踊りだしそうである。

舞台は主教戦争からチャールズ処刑(1639-1649年)にいたる時代だが、製作年が1970年だからか、クロムウェルが英雄として描かれている。
こいつはアイルランド人、スコットランド人にとって憤激ものだろうな…と想像してみる。たぶん今なら作れない映画だろうし。だれか、三王国戦争を描いた映画を作ってくれないかな。あ、でも、ブレイブハートみたいなのだけは勘弁してほしいっす。
歴史学的にどうこう言うのは、このさい野暮というものだろう。
とりあえず革命ヲタクとしては、ヘンリー・アイアトンとかジョン・ピムとかストラフォード伯とか出てきた時点で踊りだしそうである。

舞台は主教戦争からチャールズ処刑(1639-1649年)にいたる時代だが、製作年が1970年だからか、クロムウェルが英雄として描かれている。
こいつはアイルランド人、スコットランド人にとって憤激ものだろうな…と想像してみる。たぶん今なら作れない映画だろうし。だれか、三王国戦争を描いた映画を作ってくれないかな。あ、でも、ブレイブハートみたいなのだけは勘弁してほしいっす。
トレンディな「ピューリタン革命」
相変わらずWikipediaの「清教徒革命」をいじっている。
文献に当たっているうちに、「ピューリタン革命」の全体像が、
自分なりになんとなく見えてきた。
「国王と議会が対立して短期議会と長期議会があって内戦になってクロムウェ(略」
てな感じで教わった人が多いと思う。
しかし、その解釈はナウくない。
今、革命通の最新流行はコレ。三王国戦争。
しかし素人にはお勧め(略
アイルランド/スコットランド/イングランドの三王国が内戦・革命・戦争した、というのが今のヤングな革命だ。
たぶん、もうちょっとしたらこの革命像も変わるんだろう。時代とともに、過去や記憶も変わる。歴史の可能性ってやつなのかな。
だから歴史オタクは、やめられない。
どうぞおひとつ、よろしくお願いしますm(_ _)m →
文献に当たっているうちに、「ピューリタン革命」の全体像が、
自分なりになんとなく見えてきた。
「国王と議会が対立して短期議会と長期議会があって内戦になってクロムウェ(略」
てな感じで教わった人が多いと思う。
しかし、その解釈はナウくない。
今、革命通の最新流行はコレ。三王国戦争。
しかし素人にはお勧め(略
アイルランド/スコットランド/イングランドの三王国が内戦・革命・戦争した、というのが今のヤングな革命だ。
たぶん、もうちょっとしたらこの革命像も変わるんだろう。時代とともに、過去や記憶も変わる。歴史の可能性ってやつなのかな。
だから歴史オタクは、やめられない。
どうぞおひとつ、よろしくお願いしますm(_ _)m →

スコットランド革命
今日初めて知った言葉なので書いてみたかっただけなんだけど。
1639年の主教戦争から、1651年?のクロムウェルによるスコットランド征服までを
いうらしい。
その間、実質「国民盟約」National Covenantersがスコットランドを支配していたらしい。
で、イングランドと対等な関係になろうとして、共和政イングランドの逆鱗にふれたらしい。
そしてポアされたらしい。
詳しくはWikipediaの清教徒革命のコーナーまで。
本だったら、『スコットランド史―その意義と可能性』(未來社)がいいでしょう。
それでは、ごきげんよう。
1639年の主教戦争から、1651年?のクロムウェルによるスコットランド征服までを
いうらしい。
その間、実質「国民盟約」National Covenantersがスコットランドを支配していたらしい。
で、イングランドと対等な関係になろうとして、共和政イングランドの逆鱗にふれたらしい。
そしてポアされたらしい。
詳しくはWikipediaの清教徒革命のコーナーまで。
本だったら、『スコットランド史―その意義と可能性』(未來社)がいいでしょう。
それでは、ごきげんよう。
主教戦争
ピューリタン革命、清教徒革命、イングランド革命、イギリス革命、ブリテン革命、三王国戦争、五王国戦争、大反乱、大内乱
どれかひとつは知ってるという方も少なくないと思います。実はこれ、全部同じものをさします。最初の二つが一般的には有名ですかね。名前がいろいろあるのには、それなりに理由もあるんですけどね…。
で主教戦争について。これは1639年(第1次)と1640年(第2次)に起こったイングランド/スコットランド間の宗教戦争…と言っていいのかな??革命のトリガーを引いた事件のひとつです。
スコットランドで支配的だったのは、長老制。イングランドでは、国教会。両者の違いは、地方分権型教会制度か、中央集権かということ。革命をひきおこしたチャールズ1世は絶対王政好きで、中央集権型がいい。遠く離れて滅多にこない王のいいなりになんぞ、なりたくない。そんな対立があって2度戦争が起こり、2回ともあっけなくイングランドは敗北を喫します。しかし宗教的対立はアイルランドやイングランドでも始まっていて、やがて三ヶ国入り乱れての内戦/戦争に突入することに。これがピューリ(長くなるので略)です。
どれかひとつは知ってるという方も少なくないと思います。実はこれ、全部同じものをさします。最初の二つが一般的には有名ですかね。名前がいろいろあるのには、それなりに理由もあるんですけどね…。
で主教戦争について。これは1639年(第1次)と1640年(第2次)に起こったイングランド/スコットランド間の宗教戦争…と言っていいのかな??革命のトリガーを引いた事件のひとつです。
スコットランドで支配的だったのは、長老制。イングランドでは、国教会。両者の違いは、地方分権型教会制度か、中央集権かということ。革命をひきおこしたチャールズ1世は絶対王政好きで、中央集権型がいい。遠く離れて滅多にこない王のいいなりになんぞ、なりたくない。そんな対立があって2度戦争が起こり、2回ともあっけなくイングランドは敗北を喫します。しかし宗教的対立はアイルランドやイングランドでも始まっていて、やがて三ヶ国入り乱れての内戦/戦争に突入することに。これがピューリ(長くなるので略)です。
ピューリタン革命と日本現代史の類似点
ウィキペディアの清教徒革命(ピューリタン革命)投稿に没頭しててしばらく更新してませんでしたが、まあカタチになったかなと。よかったら見てやってください。
で、自分なりに勉強&投稿しての所感をば。
ピューリタン革命は1642-1660年の出来事なんですが、日本でいえば徳川幕府がはじまったころなんですが、そのころすでに人民主権とか普通選挙、さらには軍隊の文民統制なんていう理念が既に登場してたのは驚きです。
まあ普通選挙制になったのはそれより200年以上後(解釈のしかたによって1867年、1918年、1928年と異なるけど)のことなんですが、一時的に、しかもラディカルな思想ではあったとしても、そういう理念が歴史上出てきたということにちょっとびっくり。
で、表題の件なんですが、文民統制についてです。
ピューリタン革命はクロムウェルを代表とする軍が大きな役割をはたしたんですが、必然的に革命政権で軍の発言力が大きくなり、やがて軍部がクロムウェルをまつりあげる形で護国卿政権ができあがってしまいます。さらに、反対勢力を抑えるために、軍事力を国民に向けることを余儀なくされます。文献を追っていくと、突っ走る軍に祭り上げられてゆくクロムウェルの苦悩が端々に感じられます。
そこで私としては、二・二六事件あたりを想起してしまいます。軍部の独走が政治家たちに自由に発言することをためらわせ、中国戦線の拡大や満州事変、そして対米開戦へとつっぱしっていった某国のことを。
ピューリタン革命が終結したのち、イギリスで軍が政権のキャスティングボードを握ることはありませんでした。文民統制が暗黙の了解となったということです。日本で文民統制が実現されたのは20世紀になってから。「進んでいる」「オクレテル」という言い方はふさわしくないでしょう。両国の歴史はあまりにも違い過ぎます。そもそもこういう比較じたい間違ってるのかもしれません。
いっぽうで、支持されない勢力・思想が軍事力によって秩序と権力を維持するとき、そのもたらす帰結は共通項があるように思います。それは日本や過去だけでなく、現在強権的な体制についてもある程度あてはまる最大公約数のような気がします。
などと、思ったことを徒然なるままに綴ってみました。最後に、しらべていくうちに目を引いた一文を紹介します。誰の発言かはあえて言いません。発言者の立場を擁護するつもりも特にあるわけではありません。いわく、
「他民族を抑圧する民族は、みずからも自由となりえない」
民族だけでなく、個人についてもある程度言えるのではないでしょうか。他者に敬意をもたない人が、尊敬されないのもなんだかわかるような気がします。私が敬意を持たれていないこともすごくわかる気がします。
で、自分なりに勉強&投稿しての所感をば。
ピューリタン革命は1642-1660年の出来事なんですが、日本でいえば徳川幕府がはじまったころなんですが、そのころすでに人民主権とか普通選挙、さらには軍隊の文民統制なんていう理念が既に登場してたのは驚きです。
まあ普通選挙制になったのはそれより200年以上後(解釈のしかたによって1867年、1918年、1928年と異なるけど)のことなんですが、一時的に、しかもラディカルな思想ではあったとしても、そういう理念が歴史上出てきたということにちょっとびっくり。
で、表題の件なんですが、文民統制についてです。
ピューリタン革命はクロムウェルを代表とする軍が大きな役割をはたしたんですが、必然的に革命政権で軍の発言力が大きくなり、やがて軍部がクロムウェルをまつりあげる形で護国卿政権ができあがってしまいます。さらに、反対勢力を抑えるために、軍事力を国民に向けることを余儀なくされます。文献を追っていくと、突っ走る軍に祭り上げられてゆくクロムウェルの苦悩が端々に感じられます。
そこで私としては、二・二六事件あたりを想起してしまいます。軍部の独走が政治家たちに自由に発言することをためらわせ、中国戦線の拡大や満州事変、そして対米開戦へとつっぱしっていった某国のことを。
ピューリタン革命が終結したのち、イギリスで軍が政権のキャスティングボードを握ることはありませんでした。文民統制が暗黙の了解となったということです。日本で文民統制が実現されたのは20世紀になってから。「進んでいる」「オクレテル」という言い方はふさわしくないでしょう。両国の歴史はあまりにも違い過ぎます。そもそもこういう比較じたい間違ってるのかもしれません。
いっぽうで、支持されない勢力・思想が軍事力によって秩序と権力を維持するとき、そのもたらす帰結は共通項があるように思います。それは日本や過去だけでなく、現在強権的な体制についてもある程度あてはまる最大公約数のような気がします。
などと、思ったことを徒然なるままに綴ってみました。最後に、しらべていくうちに目を引いた一文を紹介します。誰の発言かはあえて言いません。発言者の立場を擁護するつもりも特にあるわけではありません。いわく、
「他民族を抑圧する民族は、みずからも自由となりえない」
民族だけでなく、個人についてもある程度言えるのではないでしょうか。他者に敬意をもたない人が、尊敬されないのもなんだかわかるような気がします。私が敬意を持たれていないこともすごくわかる気がします。


